<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>Article - S.O.Y.LABO</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.soylabo.net/article/atom.xml" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2011:/article//2</id>
   <updated>2011-06-30T17:57:21Z</updated>
   
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.33-ja</generator>

<entry>
   <title>黒い森　（住宅建築　2011年6月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2011/06/post_4.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2011:/article//2.162</id>
   
   <published>2011-05-31T17:26:44Z</published>
   <updated>2011-06-30T17:57:21Z</updated>
   
   <summary>ゴシック建築は図像などの美術的な見方によっても、形態、 技術等の建築的な見方によ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[ゴシック建築は図像などの美術的な見方によっても、形態、
技術等の建築的な見方によっても、一貫して用いることが
出来る定義付けが難しい。敢えて客観的にその構成の特徴
を挙げるなら、空間の高さと、材料の細さの表現であろう
か。
長い西洋建築史の中で盛衰しつつ、ゴシックが様式として
の地位を確立したのは、構造的合理性を持ちながら、全体
を統合する独自の美的効果を有しているからだと思う。
その効果は外部のみならず内部空間にも表われ、例えば聖
堂の、線的で軽快な構造とステンドグラスが嵌められた開
口によって射し込む光跡は、美的現象として濾過される。
その空間はシュヴァルツヴァルトに例えられ、親しまれて
きたそうだ。シュヴァルツヴァルトとはドイツ語で「黒い
森」を意味する。モミやマツの濃く生い茂る、深い森のこ
とだ。　

<img alt="%E6%A3%AE.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/%E6%A3%AE.jpg" width="260" height="260" />


深い森に洩れ差す一条の光。これは洋の東西を問わず、多
くの人間に共通する原風景かも知れない。
人は森の暗さを畏れつつ、同時に温かさを覚える。母の胎
内の暗さと同種の包摂される安心感だろうか。さらに洩れ
差す光は外界との交信のように、魂も暖めてくれるだろう。
建築を設計するにあたり、常にこの根源的な心地良さを探
求したいと思ってきた。設計者として「光」をコントロー
ルするのは当然のことだが、近年僕はむしろ「陰」を操る
ことに腐心している。陰は森であり、森の深さが光を一層
浄化させるからだ。


太子堂の家は、都心の住宅地に暮らす家族３人のためのコ
ートハウスである。２階に上げられた寝室以外の諸機能が
中庭を囲んでいる。特にダイニングルームは、中庭と直接
連続する外部のような内部空間であり、キッチンと一体と
なって生活の主要な舞台となっている。キッチンの対面に
は柱が林立する間仕切があり、その向こう側がリビングル
ームとなる。
イメージしたのは深い森の中の空地と大樹。---森に分け入
ると突然現れる明るい空地。その空地（中庭）の傍で大樹
が木蔭をつくっている。そこで食事をし、幹の陰の祠のよ
うな場所で寛ぐ。空地の明るさと祠の暗さ。その対比が印
象的で神寂びている。見上げると枝葉の隙間から洩れた陽
光が周りに影模様を映している---。
設計でゴシックをイメージしたわけではない。構造が組み
上がり空間が現われて気付かされたのだ。用途も規模も文
化も根本的に違うものながら、これはゴシックの聖堂が生
まれる過程で先人達によって描かれたイメージと根源的な
ところで繋がるのではないかと。

僕たちは安息の地を求めて、何百年も彷徨い続けているの
かも知れない。安息の地を求めて。「黒い森」の中を。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>“物語”と出会う場所が生まれた物語　（O-cube　2011年2月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2011/02/ocube20112.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2011:/article//2.161</id>
   
   <published>2011-01-31T17:09:46Z</published>
   <updated>2011-06-30T17:24:50Z</updated>
   
   <summary>すっかり馴染み深い言葉となった「地球環境保護」や「エコロジー」。  しかし、その...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      すっかり馴染み深い言葉となった「地球環境保護」や「エコロジー」。 
しかし、その言葉がモノづくりの現場から活力を奪っているのではないか？
年初にデザイナー仲間から届いた複数の年賀状を眺めていて感じたことだ。

最先端の環境・エネルギー技術を育ててきた日本にとって、環境配慮や省
エネが叫ばれる今は大きなチャンスがあると言える。実際、新しいアイデ
アからさまざまなエコプロダクトが生まれている。それなのに、 近年の日
本経済の停滞が国内産業に深い影を落としていることとは全く別のところ
で、 プロダクトデザイン業界にはある独特の閉塞感が漂っていることに気
づく。世界の経済構造のシフトと地球環境の保護という価値観の台頭によ
って、大量生産品の開発に関わること自体に罪悪感を覚えるようになって
しまったのだ。
エコを謳った商品であっても、例えばエコバッグの大量生産、大量消費な
どはエコを機会とするエゴではないのか。環境意識の高まりが環境対策関
連のマーケットを新たな産業として巨大化させればさせるほど、人はそれ
を経済の道具として利用する。それがデザイナーの良心を曇らせているよ
うに見える。
この閉塞感から抜け出そうとしてということなのか、家具やプロダクトデ
ザイン業界の周辺でさまざまな動きが始まっている。みなが大量生産に代
わる新しい価値を模索しているのだ。例えばあるグループは、江戸の伝統
工芸の職人の技術を「資源」として活用し、デザイナーの視点で再編集し
て、工芸品ではなく現代の生活にマッチする日用品を世に問うために集ま
った。またあるグループは、プロダクトデザイナーだけではなく、建築家
や作家、職人、教師、ショップオーナーなどいろいろな立場でモノづくり
に携わるメンバーが、テーマに沿った家具や小物を、生産の現場から流通、
売場まで直接コミットできる小ロットのモノづくりを通じて、直接ユーザ
ーに品物を届けることを目的として動き出した。後者は、農家が丹念に野
菜を育て、質を管理し新鮮なまま手売りし、育てた農家のプロフィールや
コメントが作物に付く形に近いかもしれない。両者が近い印象を与えるの
は、「合理と低コスト」に代わって「来歴と人間性」が重視されているか
らだろう。ここで言う来歴とは、トレーサビリティ、モノの成り立ちの物
語のことだ。
実はこれ、僕自身もメンバーである「アパートメント」というグループの
活動のこと。現在のテーマは「本のための小さな家具」で、日常生活の中
で、本との何気ない繋がりを助けるような小さな提案を集めている。結成
して４年目に入るけれど、全国各地から展示会の引き合いが絶えない。そ
んな展示会の一つで、ある嬉しい邂逅があった。会場（売場）で「絵本屋
さんをつくりたい」と夢を語ってくれたお客さんとの出会いだ。たまたま
接客した僕の本分が建築設計であるために、夢は計画に変わり、お客さん
は僕たちのクライアントになった。「“物語”には力がある。いい“物語”に
出会うと人生は豊かになる。 電子書籍が注目されても、“本”というモノの
手触りを通じて初めて伝わるものがあるはず。そのきっかけを提供したい」
クライアントが提示したコンセプトに、僕は強く共感した。
唯一にして最大の問題は予算。外装、看板、インテリア、照明、什器、 グ
ラフィックまで、普通に考えるとまず不可能だった。そこで僕は分離発注
とセルフビルドを組み合わせて、多少乱暴に青写真を組み立てた。頼みの
綱はアパートメントだった。メンバーには建築や内装施工のプロはいない
が、みなモノづくりのプロだ。きっとできる。勝手に信頼して工事をスタ
ートさせた。最初は戸惑いもあったけれど、結果は見事だった。工事が順
調に進みすぎて工程も前倒しになるほど。そうして無事、鎌倉は由比ケ浜
に「絵本＋本のための家具　syoca」をオープンすることができた。

このプロジェクトを通じて僕自身も、そこにつくり上げられるモノの「来
歴」と、それゆえに宿る「人間性」、そして「合理」に代わる次の価値を
垣間見た気がしている。今こそ僕たち日本人はこれまでの価値観を変えな
ければいけない。成長ではなく、成熟のために。
人生もモノづくりも「物語」が豊かにしてくれるから。

      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>書評 --- WATERMARK  ヴェネツィア・水の迷宮の夢　（住宅建築　2009年9月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2009/10/_watermark_20099_1.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2009:/article//2.86</id>
   
   <published>2009-10-01T02:40:53Z</published>
   <updated>2009-10-01T02:59:45Z</updated>
   
   <summary>僕はヴェネツィアに行ったことがない。 けれど僕の中にはヴェネツィアの、空間、時間...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[僕はヴェネツィアに行ったことがない。
けれど僕の中にはヴェネツィアの、空間、時間、温度、湿気、喧噪、静寂のイメージが棲
んでいる。そいつはねっとりと、身体の奥底に溜まって離れようとしない。まるで夜のヴ
ェネツィアの細い水路の翳りの中で鈍く光る、黒い水のように。

それは、この本に出会ったからだ。
ヨシフ・ブロツキー作「WATERMARK（邦題 ヴェネツィア・水の迷宮の夢）」。

<img alt="%E5%B8%AF%E3%81%82%E3%82%8A.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/%E5%B8%AF%E3%81%82%E3%82%8A.jpg" width="200" height="300" />


ブロツキーは１９４０年生まれのロシアの詩人である。
ソヴィエト連邦と呼ばれていた当時の彼の国では、詩人というのは「有益な仕事に就こう
としない徒食者」として迫害の対象とされたらしい。実際、１９６３年に彼は逮捕され、
強制労働の判決を受けた。そして１９７２年には国外追放。両親とさえ永遠の離別を余儀
なくされる。

ロシア語を愛し、言語の純粋性を追求する文化的な創作が、当局にとっては「有益な仕事
」ではないという。その極端な価値観と、抗えない強制力には戦慄を覚えるが、ともかく
もブロツキーはアメリカへ渡り、自由な活動の場を得た。大学で詩を教えながら創作を続
け、１９８７年にはノーベル文学賞を受けている。

「WATERMARK」はその２年後、１９８９年に英語で執筆された散文の作品であり、１
９９２年に発行。日本でも１９９６年に金関寿夫氏の訳で出版された。
日本語版に付されている高橋雄一郎氏の＜解説＞には以下のようにある。
「＿＿＿ヴェネツィアの水と光をモチーフに、多くの隠喩やアフォリズムを織り込んだフ
ーガのような作品である。また語り手の主体が意図的に曖昧にされ、全体がある虚構性に
包み込まれている＿＿＿（＜解説＞より抜粋）」

ヴェネツィア。ブロツキーにとってその街はどんな場所／存在だったのだろうか。
アメリカに亡命以来１７年間、毎年冬になると詩人はその街を訪れた。イタリアといえど
も冬のヴェネツィアは寒く、しかし、それが彼を癒した。
人間の嗅覚と記憶との興味深い関係はここで記すまでもないが、この街で最初に辿り着い
た駅舎の階段で唐突に出会った「凍った藻の匂い」は、彼が子供時代を過ごしたバルト海
を、あるいは遥か彼方、人間が脊索動物だった頃の記憶の蓄積を想起させ、彼を個人的な
幸福に導いたという。

ブロツキーが追放されたソヴィエトを前世と呼ぶとき、ダンテの「神曲」に準えて、現世
であるアメリカを煉獄、そしてこの街を天国とも呼ぶ。
彼の人生の前半に、ヴェネツィアとの繋がりを予告する他愛もない幾つかのことがあった
として、実際のところ最初の渡航の目的のおそらく半分は、たった一人の知り合いの（息
を呑むほどに美しい）ヴェネツィア女性だった。しかし詩人はヴェネツィアそのものに魅
入られてしまうのである。「天国の概念は、純粋に視覚的なもの」と信じる彼故に、その
水上都市の視覚的な魔力によって。　　　　　　　　

魔力の媒体は、すなわち「水」である。
辞書によると原題の「WATERMARK」の第一義は、（港や河口で潮の高さを示すために
取付けられる）「水位標」のことだ。しかし上記の＜解説＞でも触れられているように、
その単語の響きは同時に水面の波紋や、水のつくるシミ、さらに水によって刻まれる刻印
などをも連想させる。
この本を読んでいると、水面を鏡として浮かんでは消える映像、明滅する光と影のイメー
ジに度々出会うが、その一方で、千年の時を越えて運河に足元を洗われ続けるパラッツォ
の基壇に刻まれた縞模様に言が及ぶのを見つけることも出来る。この刻印は「時間」と同
義だ。
つまりこれらは、瞬間と永遠を同時に見せるのだ。

英語で書かれた原文を読んでいないので推測に過ぎないが、詩人の記した散文のこと、韻
を踏んでいるということがかなりあるのだろう。高度な韻律は音遊びを超えて連想を呼び、
テクストの下に潜む別のテクストを見せたり隠したりする。
実際「ロシア語の発想を使って、英語の読者には分からない意味を作品の下地に塗り込め
てしまう、騙し絵のような洒落を得意とするらしい」ブロツキーのテクストは、それ自体
が細波立つ水面の様だ。乱反射を丁寧に取り除くと、その深みには別の意味が浸されてい
るのが見えてくるのかもしれない。それこそ「WATERMARK」の第ニ義である「透かし
模様」のように。
きっと、詩人が「WATERMARK」という言葉に仕込んだイメージの連鎖も、瞬間と永遠
を同時に見せる水を媒体として、魔法のように広がっていくのである。
こう考えると、日本のマーケット対策とはいえ、邦題「ヴェネツィア」というタイトルに
わざわざ付された「水の迷宮の夢」という副題がいかに説明的に過ぎて無粋かが知れてし
まうけれど。

++

話は少し逸れてしまうが、この本に出会った１９９６年のさらに十数年前、子供だった僕
には繰り返し夢想していた一つの映像があった。魚が空を泳ぎ、鳥が水中を飛びかうイメ
ージだ。

トビウオなら空を飛ぶし、ペンギンだって海を泳ぐだろう、という話とはちょっと違う。
僕は地面にしゃがんで水溜まりの中を覗き込み、無数の小さな生き物が漂う様を観察しな
がら何時間でも呆けている子供だったけれど、当時の僕にとって、水と空気は密度と比重
が異なるだけのひと連なりの同種の存在で、水と油がつくり出す境界と水と空気との境界
は、全く等価で並列の事象だった。
いま考えれば、水でも空気でもいわゆる流体の中で浮遊するように生きるいのちに、嫉妬
していたのだと思う。「魚が空を、鳥が海を、」というのは、嫉妬の対象である彼らが本
来の属性を離れてさらに自由に生きることに対する憧れの、無意識の映像化だったのかも
知れない。何れにせよ、地球の表面に積層する密度の違う流体に残された自由に対して、
その底に沈殿し凝結した泥土の重さ、そこに足を捕われる人間の不自由さが、何よりもど
かしかったのだ。

そういう意味において僕の中で「水」は、空とそして自由と繋がりながら、決してその中
に入り込むことが出来ない目の前に横たわるもう一つの宇宙だった。
水溜まりを覗き込みながら自分自身も覗かれているように思われて、その水面に映る雲を
見ては何度も自分の後ろの空を振り返る子供は、地球をボールの様に抱える巨人キュクロ
プスの一つ目が雲間から覗いていると信じていた。そして僕が覗く水の中にもまた小さな
水溜まりがあって、その前でしゃがみ込む小さな存在があるはずなのだ。
そう、僕にとっての宇宙は繰り返し積層するものだ。おそらくはマトリョーシカの入れ子
のように。核と電子で構成される原子の姿と、地球と月、太陽系や銀河系の姿が相似形で
あるように。そして、ヴェネツィアを構成する水路がヴェネツィア自身の姿を映し込むよ
うに。

++

いつも水がイメージの投射膜だった。
水といえば同じロシアの映画監督、タルコフスキーを思い出す。彼は映画で詩を紡ぎ、そ
の映像にはいたるところに水が現れる。
「ロシアでは大量の水を、イタリアより遥かに多く見ることが出来る」という彼は、「水
は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝える。水は地上でもっとも美しいもののひと
つ」だと、あるドキュメンタリーフィルムの中で語っている。

ブロツキーの水とタルコフスキーの水。
同じロシアの感性によって捉えられた「水」なのだけれど、僕は違う印象を持っている。

タルコフスキーにとっての水は、扉のようなものではないか。アチラとコチラを結び、あ
るいは隔てている。現実と虚構を結ぶ媒体として、時には障害として、多様な状況の表出
を仲立ちする。水は海になり、土砂降りになり、水溜まりになり、小川になり、蒸気にな
る。静かなれどもダイナミズムを伝えるものだ。特に蒸気はその曖昧な集合で時間を無効
化する。それが現われつつあるのか消えつつあるのか、物の輪郭を隠すことによって時間
の対極で空間を喚起するのだ。

一方、ブロツキーが描く水は固定されている。固定という言葉が水にとって相応しくない
ならば、コンティヌオ（通奏低音）として常にそこに在る、と言えば良いだろうか。たと
え旋律が、美しい女性や鏡の館のことを奏でているときにでも。きっとこれはヴェネツィ
アで生きる感覚と近いのだろう。日々の生活があり、それと直接関わろうが関わるまいが、
水もそこに在る。彼が「水」と「時間」を同義だと主張することが、別の角度からもそれ
を証明している。
ちなみに、ブロツキーが描写する霧は、水と分離され「乗り込んで来る」ものとして描か
れている。創造力逞しく擬人化されたりして。

++

この本に、話の結末は見つからない。この本の魅力は迷い込むことにあるからだ。ヴェネ
ツィアという迷宮を実際に彷徨うように。方向感覚の喪失は時間感覚をも曖昧にして、あ
る種の浮遊感を生む。いつのまにか僕は子供の頃に憧れた流体を漂う生きものになってい
る。
幸福とは「自分が内部に持っている何かが自由に宙を漂っているのを見つけた瞬間に生ま
れる感情」というのは、ブロツキーの言葉だが、彼がヴェネツィアに通い続けた理由も、
水の迷宮に身を浸して、ただ漂っている時間を求めたからではなかっただろうか。

ヨシフ・ブロツキーはこの本が日本で出版された僅か６日後、１９９６年１月２８日にニ
ューヨークの自宅で死去した。


原著 : Joseph Brodsky
翻訳 : 金関寿夫
価格 : ￥ 1,890 （税込）
単行本 : 151 p 
サイズ : 756(hundredths-inches) 
出版社 : 集英社]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>書から空間へ　（住宅建築　2009年5月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2009/05/post_1.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2009:/article//2.77</id>
   
   <published>2009-05-01T08:12:10Z</published>
   <updated>2009-08-05T08:23:07Z</updated>
   
   <summary>あらゆる書物はそれぞれの世界を内包する。記述された内容が示すものは勿論、その 大...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      あらゆる書物はそれぞれの世界を内包する。記述された内容が示すものは勿論、その
大きさ、厚みと重さ、紙質、装丁、題字など物理的に計量可能なものと、ときに観測
不可能なものまでを通して、その世界観が書物の外にも滲み出る。　　　　　　　　
そして内包している世界は自己完結しない。参照される言語や文化がある以上それは
前提だが、例えば他の書物がもつ世界観との出会いがあったとき、それぞれの書物の、
あるいは読み手それぞれの世界を繋ぎ、拡げたり深めたりする。　　　　　　　　　
それは書物が単なる物質ではなく、意味を充填した容器であることを示す。容器の内
容物が化学反応を起こすのだ。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
一方書棚はどうだろう。容器という言い方をするならより形態は近いけれど、果たし
てある世界を内包するだけの「ウツワ」足り得ているだろうか。　　　　　　　　　

これは希代の編集家、松岡正剛氏の「千夜千冊」との出会いから頂いた、大きな課題
であった。千夜千冊は松岡氏が古今東西・諸学諸芸の本を巡って記し続けた前代未聞
のエッセイ／書評集である。この途方もないプロジェクトのための特別な書棚の考案
が求められていた。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

まず書棚は、収められる書物にとっての舞台でなければならない。松岡氏曰く「本は
寂しがりやなので、、」ある書物には別の２冊を添えてセットで世界観を表明する。
同じ本でも組合せを変えれば意味が変わって来るからだ。故にどの本を選び棚に収め
るのか、それらの本を棚（舞台）の中でどのように置く（振付ける／演出する）のか、
さらにその棚が隣接する他の棚とどのような関係性を結ぶよう配するのか、いわゆる
選書と配架が非常に重要になる。本の組合せと同様に棚の並びかたで世界の関係性や
文脈を編集することが出来るのだ。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
つまり、選んだ本と集積した棚と空間によって「ある世界」を表象しようと試みるな
ら、その実施の為には、それぞれの棚が個として独立しつつ互いに連なり組み合わさ
り、無限に自在に組み合わせられるような物理的な仕組みが必要となる。　　　　　
それは無謀な挑戦のようだが、既存の書棚の概念を超えようとするためにも、あえて
棚が本という媒体に踏み込むような独自のアプローチが必要だった。　　　　　　　
議論と試作に十数ヶ月の月日を費やして独特の構造と仕組みと意匠が定まり、松岡氏
によって「燦架」と名付けられた。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

出来上がってみればシンプルな構造体である。両手で抱えられるくらいの箱状の一架。
それはあらゆる生体組織の構成要素となる細胞のように、ヒンジを兼ねた連結点によ
り自由な角度で（有機的に）隣接すべき箱と繋がることが出来る。　　　　　　　　

細胞は迎えるべき知を待つ虚空でもある。書物を蔵するための単なる箱ではなく、書
院の床の間のような一つのシアトリカルな空間として捉えたい。　　　　　　　　　
例えば専用のスタンドに一架据えて書物と工芸品などを収めれば個人性の表現の場と
なり、必要な数架を組み合わせて住空間に配すれば機能的な家具となり、多くを集積
すれば曲直自在の壁や塔状を成し、空間を生み構成することさえできる。　　　　　
しかし計量可能なこれらの構築物より重要なのは、その内容物の関係性がつくる不可
視の構造だ。それは単に思考の軌跡を枝状の繋がりや展開で類比／再現するというよ
り、知を抱いた棚（細胞）自身が相互に作用し得る幾重もの様相（生体組織）をつく
り出すことで環境を再構築し、そこに新たな関係性を生み、新たな思考を湧き起こす。
そんな可能性を秘めている。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

千夜千冊から出発した燦架は今、システムをそのままにプレタポルテモデルとして改
編されて発展し、書物だけにとどまらず、あらゆる事物に場を提供し空間を形成しつ
つある。千鳥が淵のギャラリーで美術工芸品に、横浜のカフェで生活雑貨や企画展示
に、九州の図書館で特設コーナーになり、韓国では「サランバン（舎廊房）」の思想
と合体するなど、今後もさらなる展開が続きそうだ。　　　　　　　　　　　　　　
あちこちに知的な小さな世界が生まれることを想像して、愉しんでいる。　　　　
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>地球温暖化／エコロジー、携帯電話について　(PDweb 年始特集　2009年1月31日号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2009/01/pdweb_2009131.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2009:/article//2.69</id>
   
   <published>2009-01-31T02:24:16Z</published>
   <updated>2009-04-02T02:48:59Z</updated>
   
   <summary>「次世代デザイナーズFILE」昨今のキーワードに対するコメント。 地球温暖化／エ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      「次世代デザイナーズFILE」昨今のキーワードに対するコメント。


地球温暖化／エコ：

自然こそエネルギー。化石燃料も含めて地球からの賜物である。だ
けど僕たちはその取り出し方に慎重であるべきだ。賜物には感謝で
応じるべきであり、産業革命以降の傲慢な搾取の態度が明らかに地
球を疲弊させた。太陽光、風力、潮力、地熱…すでにそこにあるエ
ネルギーをどのようにつかまえてどのように生かすのか。そこに科
学者とデザイナーの智慧が必要とされている。しかしその前提に、
この星への敬意と感謝を忘れるべきではない。


携帯電話：

道具や機械が身体の機能を延長させてきた歴史を考えても、この小
さなツールが負う役割の大きさとインパクトは比較にならない。電
話は空間をつなぎ、メールは空間と時間をまたぎ、カメラやスケジ
ューラは空間や時間を定着させて記憶を外部化し、ネットへのアク
セスは無限に積層して広がる情報の海をすくい上げる。この小さな
カタマリが時間と空間を越えて人と人をつなぎ、人とモノを結ぶ。
今後の可能性を想像してもこの存在は革命的だと思う。


メッセージ：

アーキテクチュアを『建築』と訳すと窮屈だけれど、あまねく『何
かに到達するプロセスを編集、構築すること』と考えると自由にな
れます。僕たちは、思い込みで成り立っている既成の領域を出るこ
とで得られる新しいアウトプットを目指し、リゾートホテルの設計
から箸置きのデザインまで、ユニークな価値を創造したいと考えて
います。
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>シザさんがやってきた　〜アルヴァロ・シザ来日のレポート〜（二期倶楽部　四季だより　9月14日号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2008/09/post_2.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2008:/article//2.55</id>
   
   <published>2008-09-13T18:14:06Z</published>
   <updated>2008-11-07T18:32:22Z</updated>
   
   <summary>御歳75歳を迎え、いまだ少年のような好奇心で世界を発見しては嬉々として、 ぐっと...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[御歳75歳を迎え、いまだ少年のような好奇心で世界を発見しては嬉々として、
ぐっと顔を近づけゆっくり発する言葉には、いつも冗談を差し込んでくる。
彼の人間としての温かさ、穏やかで気取りの無い人柄に接していると、
つい気軽に、シザさん、と呼んでしまいたくなる。

彼の名はアルヴァロ・シザ。実は、ポルトガルを代表する建築家であり、
建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞をはじめ数々の賞に輝き、
1988年には日本で高松宮殿下記念世界文化賞も授与された、世界の巨匠である。

<img alt="%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F.jpg" width="124" height="450" />

アルヴァロ・シザは「建築の詩人」と呼ばれている。
その建築は白い外観と量感の美しさが特徴的で、素朴で静謐な佇まいは確かに
一遍の詩のようだ。
けれども実際に彼の建築に触れるなら、ポエティックという言葉による評価は
安易過ぎると感じるかも知れない。
ポエムというより、もっと壮大な音楽に近いのだ。
繊細で優しいけれど強さを秘めた、ピアノソナタのような。
遊び心に満ちてしかも計算され尽くした、シンフォニアのような。

そう思うのはきっと、そこに時間を感じるからだろう。
確かな、ゆったりとした時間の流れの中で、風がそよぎ、光が移り、空間が在る。
そして自分がその空間を動くことによって、音楽はまた、静かに騒ぎ始める。

++

そのアルヴァロ・シザ（以下、失礼してシザさん）一行が
あるプロジェクトのため、日本にやってきた。

共にヨーロッパとアジアの縁（ふち）に位置するポルトガルと日本。
地球の反対側にありながら、両国には歴史的に深い縁（えん）がある。
シザさん自身も若い頃から日本の文化には高い関心を払っていたそうで、特に
「俳句は自分の作品の世界観に少なからぬ影響を与えた」のだと話してくれた。
しかし世界中でプロジェクトを抱える彼をして、
不思議なことに今まで日本で建築の仕事をする機会を持つことがなかった。
今回の来日は、彼にとって初めてとなる日本でのプロジェクトのため。
そのイメージをより深化させてもらおうと、選りすぐりの場所にご案内した。
東京から神奈川、石川を巡り、そして最終目的地である那須、二期倶楽部へ。

到着前の突然の雨で石も樹々も洗われて、那須の空気はしっとりと潤っていた。
二期倶楽部に到着したシザさんはとてもリラックスされたご様子。
二期スタッフが用意した趣向を凝らした暖かい「お迎え」に目を細め、
地の野菜をふんだんに使ったフルコースのお料理も、全て平らげてしまった。
（お酒もめっぽう強い。）
翌日は緑の映える青空の下、雨上がりの清々しい空気に満ちた散策路を巡り、
二期倶楽部各所をご案内。シザさんは好奇心に満ちた目で次々と何かを発見し、
立ち止まっては案内を質問攻めにする。本当に子供のように純粋な人だ。
キッチンガーデンでは大いに笑い、温泉、スパで体をほぐし、食事とお酒を堪能。
２日間ではあったが、心から寛いで、ゆったりとした時間を過ごして頂いた。

今回の滞在では、シザさんも大いにインスピレーションを受けたらしい。
日本固有の文化や風土、特に生活空間におけるお風呂、くつぬぎの文化。
伴う清潔な室内とその室礼。ウチとソトの距離感。地場の石、土、木という材料、
そしてそれを扱う職人の技。
日本の「善き処」がシザさんのフィルターを通るとどのような変化を起こすのか。
プロジェクトの今後がさらに楽しみになってきた。

++

実は今回の旅に出るにあたっては、お歳のこともあり体力的な心配をされていた。
しかし韓国を含めた全工程を難なくこなし、日本でさらなる英気を養って
心身ともにリフレッシュされ、むしろ元気になってお帰り頂けたのかもしれない。
帰国後、早速 eメールが届いた。
日本でのもてなしに対する感謝の言葉に面白いエピソードが添えられていた。

曰く。
ポルトガルに到着したとき、若者も含めた一行もさすがに長旅でくたくただった。
その中で一人、シザさんだけは元気で、若い仲間達に向かって言ったそうだ。
「疲れたなら（それを癒すために）もう一度日本に戻ろうか？」

こちらに顔を近づけてゆっくりと話すあの悪戯っぽい笑顔が浮かんでくるようだ。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>燦架　The SANKA - modular bookshelf -　（建築ジャーナル　2008年1月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2008/01/the_sanka_modular_bookshelf_20.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2008:/article//2.36</id>
   
   <published>2008-01-01T13:24:30Z</published>
   <updated>2009-07-14T13:53:56Z</updated>
   
   <summary>テクスチュアはテキストと同じ語源を持っている。 それはラテン語で「織ること」を意...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[テクスチュアはテキストと同じ語源を持っている。
それはラテン語で「織ること」を意味する "textura" である。
糸を織ればテキスタイルであり、言葉を織ればテキストであり、
そして、それらの表面に現われる「綾」がテクスチュアというわけだ。

背板と側板の文様にテキストを込めて物理的なテクスチュアをつくり、
並んだ姿はテキスタイルのように綾を成す書架モデル「燦架」。

その生い立ちから成熟のプロセスもまた、
大きな文脈（コンテキスト）の中にある。


<img alt="satsu.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/satsu.jpg" width="300" height="200" />





書物は万余の考想を刻印し、書架は胸中の全景を提示する。
書物と書架というもの、モダンデザインとモダンリビングの波及の中で、あまりにも
看過されてきた。しかし、アリストテレス文庫から五山文庫まで、王羲之の文房書斎
からオノレ・バルザックの書房に至まで、そこにはそれぞれの時空があったのである。
---------------松岡正剛（「千夜千冊・結」発足案内より抜粋）




希代の編集家、松岡正剛氏の「千夜千冊」との出会いから一つの書架モデルが生まれ
た。千夜千冊は、松岡氏が古今東西・諸学諸芸の本を巡って記し続けている前代未聞
のエッセイ／書評集である。その途方もないプロジェクトのための「特別な書棚」の
考案が求められていた。

書物と同じように棚も世界観を内包できるはず。「燦架」と名付けられたこの構造と
仕組みは、氏の選書と配架によって、集積された棚と空間から「ある世界」を表象す
ることを可能とするため、それぞれの棚が個として独立しつつも無限に自在に組み合
わせられるシステムとなっている。それは、単に思考の軌跡を枝状の繋がりや展開で
類比／再現するというよりも、知を抱いた棚自身が相互に作用し得る幾重もの様相を
つくり出し、環境を再構築する、、、そしてそこに新たな関係性を生み、新たな思考
を湧き起こすものである。

我々はこれを既存の書架の概念を超えるものと考え、書物を収めるための単なる棚で
はなく、書院の床の間のような一つのシアトリカルな空間として捉えた。専用のスタ
ンドに一架据えて書物と工芸品などを収めれば個人性の表現の場となり、必要な数架
を組み合わせて住空間に配すれば機能的な家具となり、多くを集積すれば曲直自在の
壁や塔状を成し、空間を生み構成することができる。

換言するなら、「コンテンツによってカタチを変え、カタチがコンテンツの位置づけ
を再定義することを可能にする棚」であり、そのシステムなのだ。

千夜千冊から出発した燦架は今、書物だけにとどまらず、あらゆる事物に場を提供し
空間を形成しつつある。千鳥が淵のギャラリーで美術工芸品に、横浜のカフェで生活
雑貨や企画展示に、韓国では「サランバン（舎廊房）」の思想と合体し、今後はより
広い世界へ向けて、日本発の「モノ作り」として「モノ語り」と共に発信していくこ
とになるだろう。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>テクスチュアの復権　　(建築ジャーナル　2008年1月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2008/01/post.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2008:/article//2.35</id>
   
   <published>2008-01-01T12:46:51Z</published>
   <updated>2008-02-12T16:38:25Z</updated>
   
   <summary> 工業化が建築にもたらした均質な仕上げ。 施工技術のマニュアル化は、熟練を要せず...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="take.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/take.jpg" width="200" height="286" />

工業化が建築にもたらした均質な仕上げ。
施工技術のマニュアル化は、熟練を要せずにそれをある精度で現場にも再現させる。
白く滑らかで、無機質な空間が量産され、モダンデザインと共に世を席巻した…のは、
前世紀の昔話だったろうか。

サルバドール・ダリは、ル・コルビジュエに向かい「未来の建築は柔らかく
毛深いものになる。」といった。
それは、テクスチュア復権の予言だった。
しかし経済合理主義は、インターナショナルスタイルの合理性のみを採択し、
建築を経済の道具に変えてそれを反復量産し、ついにリージョナリティを追放した。
ここ日本においては、特別深刻に。

２１世紀。
今こそモダンデザインは毛深くなれないだろうか、と我々は考えている。
日本には高度な職人の技術があった。それらに支えられた建築の造形があり、
手触りがあった。それらを、現代の建築空間に引き継ぎたい。
新しい技術やデザインとのフュージョンで、新しい日本の空間とディティールをつくりたい。
いかにコンピュータのシュミレーションが高度化しようとも、
建築は手でつくられるものと信じたい。

生の肉体が入る器としての生の空間には、
やはり、手の感覚（テクスチュア）を取り戻すべきなのだ。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>江頭慎「都市を歩く表象 -flat Elephant walks- 」展にて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2007/07/_flat_elephant_walks.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2007:/article//2.18</id>
   
   <published>2007-07-27T09:31:08Z</published>
   <updated>2010-05-24T14:52:32Z</updated>
   
   <summary> ロンドンのAAスクール（Architectural Association S...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="07.tiff" src="http://www.soylabo.net/article/07.tiff" width="100" height="139" />

ロンドンのAAスクール（Architectural Association School of Architecture）のディプ
ロマユニットマスター（教授）であるShin Egashira氏は、私の留学時代の恩師である。
２００７年７月１２日より２７日まで、紀尾井町のオカムラデザインスペースR にて「都
市を歩く表象」と題された氏（師）のエキジビションがあった。

会場では３つの大きな装置が軋みを上げながら、ゆっくりと動いていた。
それは象の像だった。

「群盲象を評す」という言葉がある。盲目の者が象に触れつつ部分的に評価することを言
うが、真意は細部に固執して全体を正しく捉えることが出来ないことのたとえである。
北斎は「象にのぼるひとびと」という版画にその皮肉をユーモラスに刻んでいる。氏はこ
の北斎の版画を好んで引用する。それは様々な部分的認識が折り重なり完成されることな
く形成される全体像というものが、氏の捉える建築とランドスケープに対する認識と一致
するからだ。

今回は、その北斎の描いた故事を念頭に、19世紀後半の（当時は先鋭的だった）撮影技術
によってエドワード・マイブリッジが印画紙に記録した象の連続写真を、現代のハイテク
技術で加工して現在的な光学的現象に変換しつつ、最終的に、木と鉄とガラスで作ったオ
ブジェクトのプリミティブな振舞いへと、もう一度引き戻して、、、氏は提示する。

「象に人が隣り合わせるところから像（イメージ／ビジョン）が生まれるーー（中略）ー
ー想像とはすなわち象の姿を想う行為」「建築家にとっての現代の象とは、捉えどころの
ない姿をした都市のようなものかもしれない。ーー（解説文より）」

表象として解体された象が、都市ーー新しいものと古いものが無秩序に動き続ける街ーー
を歩く。象と像（イメージ）が重なりつつ、ガラススクリーンの表面に反射する光となっ
て明滅する。ガラスにイメージは定着しないが、それは観察者の網膜の奥で再構築される。
展示解説文の中の氏の言葉を借りれば、それは「模造される架空の風景」となって観察者
に新たな記憶を与えることだろう。氏はルネッサンス期の記憶術についても触れているが、
このインスタレーションは脳内にヴァーチャルに構築される都市「模造される架空の風景」
を眼前に再提出するかのようだ。

一方、センサーによって観察者の動きを反映するプログラムが組まれた装置は、そのブラ
ックボックス内に駆使される技術が高度であればあるほど、それが実体（オブジェクト）
にフィードバックされる時に避けられないぎこちなさを生む。しかしそこにこそ「ハイテ
クを笑いたい」と言う氏の隠された狙いがあるように思う。

その装置のプリミティブな振舞いは、我々の身体そのものを隠喩している。それは、テク
ノロジーに包囲されている現代の我々の環境と生身の体との間に生じるチグハグさに対す
る、氏一流のアイロニーのようにも思えるのだ。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>私の提案する家具「rhombuses-chair」　（住宅建築　2006年4月号）　</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2006/04/rhombuseschair20064.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2006:/article//2.20</id>
   
   <published>2006-03-31T16:11:48Z</published>
   <updated>2007-09-03T17:03:41Z</updated>
   
   <summary> このイスは形のないイスである。固定された姿勢、ふるまいを持っていない。７つの間...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="06.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/06.jpg" width="200" height="300" />

このイスは形のないイスである。固定された姿勢、ふるまいを持っていない。７つの間接
が自在に角度を変え、身体のフレキシビリティやシチュエイションの変化を受け止める。

はじまりは、ヒンジの機構を利用した伸縮自在のスクリーン「EFoS」( ’０２年) をデザイ
ンしたことから。このスクリーンは連続した四辺形の構造体からなり、縮んだ状態から最
大で９.１５倍にまで伸延するものだった。

その後その連結四辺形の構造をアレンジしてこのイスのアイデアに発展する。しかし具現
化のプロセスには模型での検証が不可欠だった。そもそも定まった形のない構造の検証に
平面上のスケッチという手法では無理があったことと、あるルールに乗らなければこのイ
スを構成する座や背や脚の四辺形が理想的な連動をしないことが理由だった。

いくつもの小さな試作を屑として、結局この一つのシンプルな形に辿り着いた。材料には
１０×２０mm の檜材を選択。白木の細い材料の繰り返しが繊細な陰影を創り、どこか日
本的な雰囲気も生んでいる。

一方関節の部分の内部は少しメカニカル。実は現在も、よりスムースな動作を目指して開
発の途上である。各関節には鋼棒が差し込まれていて、その内一つにはラチェット機構が
組み込まれる。自由な角度で固定／リリースが可能で、一つの関節を操作することによっ
て全体の形態が制御される。（開発・販売協力会社募集中）]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>松岡正剛 千夜千冊 ／「燦架」へ寄せて　（千夜千冊・結　発足案内　2005年7月）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2005/07/20057.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2005:/article//2.21</id>
   
   <published>2005-06-30T16:25:35Z</published>
   <updated>2007-10-21T03:09:55Z</updated>
   
   <summary> 夢の直中。 「千夜千冊」は松岡先生にとって旅のようなものであったと伺いました。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="05.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/05.jpg" width="200" height="300" />

夢の直中。

「千夜千冊」は松岡先生にとって旅のようなものであったと伺いました。４年に渡って続
けられたグランドツアー。それはまさに、人知の大陸を横断するが如きものであったこと
でしょう。

先生が旅路で覗かれたその窓、その路地に、一つの棚としてどのような舞台を供するべき
か、また、その森や都市や山脈には、棚の集積としてどのような仕組みで迎えるべきか、
壮大な構想に、私はデザイナーとして重い責務と深い幸運とを感じつつ「千夜千冊」後半
の三分の一をお供させて頂きながら、考えて参りました。

------単に思考の軌跡を枝状の繋がりや展開で類比、再現するよりも、知を抱いた棚自身が
相互に作用し得る幾重もの様相をつくり出し、環境を再構築すること。拠って、そこに新
たな関係性を生み、新たな思考を沸き起こし、そこからまた新たな旅に発てるようなもの
に成るように------。

縁が縁を呼ぶ、不思議な道程でもありました。そもそもこの機会に巡り会わせて下さった
北山さん、牧浦さんは勿論、無二の製作チームとの出会いは、ビス一本まで妥協なく相応
しい素材とカタチを求めることを可能としました。結果「棚」は棚であることを超え「千
夜千冊」の為の小さな宇宙に昇華して、ついに「燦架」という眩し過ぎるような銘まで頂
戴するに至ったのです。

一つの山を超えて、今、我々が目指すべき次の大きな山が見えています。「燦架」には、
集合茲積の遺伝子を組みました。一架はそれぞれ独立した存在でありながら「千夜千冊」
全体を体現する超部分でもあり、故に「千架の分有」に、いつか来る「千架の合体」を想
うのです。

近い未来、一堂に会した「燦架」によって「千夜千冊」の無尽蔵の可能性から、未掘の価
値が結構する様を見届けたい------。
夢中の道、旅はつづきます。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>住まいの小さな主役「木製外付可動ルーバー」　（住宅建築　2004年3月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2004/03/20043.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2004:/article//2.22</id>
   
   <published>2004-02-29T16:34:13Z</published>
   <updated>2007-09-03T16:59:00Z</updated>
   
   <summary> 木漏れ陽という言葉がある。「茂る枝葉の間を漏れさしてくる陽光のこと」だけれど、...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="04.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/04.jpg" width="200" height="300" />

木漏れ陽という言葉がある。「茂る枝葉の間を漏れさしてくる陽光のこと」だけれど、あ
の優しさ、清々しさは何だろう。誰もがふとした瞬間に自然から受ける小さな感動の一つ
だと思う。この感覚を建築空間に装置として挿入し再現できるかもしれない。そんな可能
性をこのベントルーチェ（現商品名：エヌベント）という商品の開発に携わって強く感じ
た。

５年前、富山県のあるコンペに参加したことから、地元のいくつかの企業と関わりを持つ
ようになった。もともとアルミ建材や鋳造などの産業が盛んで技術を蓄積してきた地場で
は、今までの受け身の受注体制ではなく、自ら商品の発信をするべく積極的にデザイナー
を起用して、新しい動きを始めている。そんな会社の一つが今回のコラボレーションの相
手、ライルだ。

すでに屋内用の木製ルーバーをリリースしていた同社は、室内外の環境調整機能に着目し
より効果的な遮光・遮熱や意匠的な面からも高まっている屋外利用のニーズを受けて開発
を開始。求められる機能と天然木の素材を活かしたシンプルデザインの両方を追求した。

課題であった耐久性能も富山県林業技術センターによる暴露実験の情報協力を得て、最適
な材種、塗料の選定に目処が立った。

現行の室内用ベントのパンフレットの言葉に、「季節の移り変わりを風の香りで感じるこ
とがあるように、人は、自然の微妙な変化を肌で感じ取っている…」とあるけれど、確か
にそうだ。人間のこのデリケートな感覚に応えられる建築の実現こそ、僕の夢でもある。

初の屋外版である今回のプロトタイプが建築に取り付くのを目にしたとき、羽根の表面の
緩いアールを滑る光は、無垢材のみが持ち得る質感と木目のゆらぎに濾過されて、優しく
僕の中のあの感覚を呼び覚ましていた。

ルーバーによって加工され、人為的に操作されているはずなのに、その陽光は「木漏れ陽」
だったかも知れない。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>家具が生み出すインテリアランドスケープ「CFP-3」　（建築文化　2003年6月号）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.soylabo.net/article/2003/06/cfp320036.html" />
   <id>tag:www.soylabo.net,2003:/article//2.23</id>
   
   <published>2003-05-31T16:35:19Z</published>
   <updated>2007-09-03T17:00:05Z</updated>
   
   <summary> 家具を意味する&apos; furniture &apos;という言葉は furnishという動詞...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.soylabo.net/article/">
      <![CDATA[<img alt="03.jpg" src="http://www.soylabo.net/article/03.jpg" width="300" height="200" />

家具を意味する' furniture 'という言葉は furnishという動詞を語源に持つ。この動詞の第
一義は「〜を供給する」である。つまり家具は空間というハードに対して、インストール
されるべきソフトという位置付けとなる。
ならば、家具という名の、機能を内蔵し行為を誘発（あるいは支援）するいくつかのオブ
ジェクトを、限られた空間の中にそれぞれ注意深くインストールしていくことで、ある方
向性を持ったインテリアランドスケープを構築していこうとする手法が成立するはずであ
る。

そしてこの手法は、周辺環境の本来のコンテクストとは断絶され、経済的側面のみによっ
て査定されて時間単位で切り売りされている商品としての賃貸空間に対して、もう一度新
たな文脈と方向性を上書きし得るものだろうと思っている。
多くの場合、商業的インテリアデザインにおいては（特に都市の雑居ビルにレストランや
バーなどをつくる場合）、周辺環境のコンテクストとは切り離された建物内の一室に、さ
らに別世界を構築すべく入れ子状の箱をデザインする傾向がある。

しかし今回私は、コンテクストと断絶したスケルトンに対してさらに断絶したインフィル
を挿入するというインテリアデザイン的な手法ではなく、賃貸空間が提供するごくありふ
れた表皮をサイトとして受け入れ、読み込み、そこで新たに展開される人間のアクティヴ
ィティに対して、適切であろう必要かつ十分な装置を供給（ furnish ）するというランド
スケープデザイン的な手法をあえて選択している。
これは、日本の平均的な賃貸空間に対して、今回のようにオフィス空間や住空間などを提
案する場合においては、エコロジー／省資源の観点から言っても、今後もっと研究される
べき有効なメソッドのひとつなのではないだろうか。

CFP ( Customized furnishing project )は、私が ’０１年に行った自らの自宅兼事務所の
改装を出発として、 ’０２年のワンルームマンション内のアトリエ（ CFP-2 ）、そして今
回のオフィスのプロジェクト（ CFP-3 ）へ引き継がれ試みられている。

CFP-2では、四谷のワンルームマンションの一室にグラフィックデザイナーのアトリエを
つくった。現状復帰を前提とした賃貸空間を家具によってカスタマイズする提案の一例で
ある。床、壁などには一切傷を付けずに、現場寸法にぴったり合わせたオリジナルの家具
を配することで、求められた機能の事務所空間を構成している。
たとえば、既存のミニキッチンを扉の中に収納してしまったり、既存の窓枠と寸法を合わ
せた棚で換気の機能を損ねないようにしながら、ディスプレイの要所としている。一方、
撤去したものも全て廃棄せずに保存／再利用を試みている。床のタイルカーペットは、剥
がして積み重ね、椅子として再構築。天井の蛍光灯も撤去した後、棚の上に移設して間接
照明とした。コストを抑えるために職人の手は借りず、全ての造作はセルフビルドで行っ
た。

そして今回のCPF-３は、銀座の事務所ビルのワンフロアを、広告/グラフィックデザイン
会社のためのオフィスに改装するものであった。
CPF-1、CPF-2と同様に賃貸スペースであり、将来の現状復帰工事を視野に入れた計画。
部屋は白くきれいだが、他聞に漏れず無機質な石油製品の仕上げで覆われていた。しかし
南側の日当りの良い大きな開口が特徴的で、目の前の高速道路の向こうには汐留再開発の
ビル群が聳えている。

このサイトの条件とコストの制約から、全面改装を前提とせず、天井高の２分の１までの
造作とする明快なコンセプトとデザインとした。その結果生まれた腰壁はオフィスのパー
ティションとしても最適な高さであり、ワーカーの視界の制限による集中力のコントロー
ルと同時に、窓から侵入する過剰な外光の制御や、本棚との組み合わせによって生まれる
天板上のスペースを提供する。
また、作業内容に合わせて3段階に設定したデスク天板のレベル、個人使用のMOやCD、
各種ファイルを保管する間仕切り棚、ポスターなどの大判の紙も収納できる可動の作業台、
ピンナップにも使用可能な跳ね上げ式の壁、等々、機能を複合させた「家具」を空間に注
意深くインストールしており、結果、ある意思を持ったインテリアランドスケープが構築
できたように思う。

大地が時によって変形していくように、今後クライアントの使用によって馴染み、変化し、
より愛着を持ってもらえるようになることを期待している。]]>
      
   </content>
</entry>

</feed>

