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江頭慎「都市を歩く表象 -flat Elephant walks- 」展にて  Jul 27, 2007

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ロンドンのAAスクール(Architectural Association School of Architecture)のディプ
ロマユニットマスター(教授)であるShin Egashira氏は、私の留学時代の恩師である。
2007年7月12日より27日まで、紀尾井町のオカムラデザインスペースR にて「都
市を歩く表象」と題された氏(師)のエキジビションがあった。

会場では3つの大きな装置が軋みを上げながら、ゆっくりと動いていた。
それは象の像だった。

「群盲象を評す」という言葉がある。盲目の者が象に触れつつ部分的に評価することを言
うが、真意は細部に固執して全体を正しく捉えることが出来ないことのたとえである。
北斎は「象にのぼるひとびと」という版画にその皮肉をユーモラスに刻んでいる。氏はこ
の北斎の版画を好んで引用する。それは様々な部分的認識が折り重なり完成されることな
く形成される全体像というものが、氏の捉える建築とランドスケープに対する認識と一致
するからだ。

今回は、その北斎の描いた故事を念頭に、19世紀後半の(当時は先鋭的だった)撮影技術
によってエドワード・マイブリッジが印画紙に記録した象の連続写真を、現代のハイテク
技術で加工して現在的な光学的現象に変換しつつ、最終的に、木と鉄とガラスで作ったオ
ブジェクトのプリミティブな振舞いへと、もう一度引き戻して、、、氏は提示する。

「象に人が隣り合わせるところから像(イメージ/ビジョン)が生まれるーー(中略)ー
ー想像とはすなわち象の姿を想う行為」「建築家にとっての現代の象とは、捉えどころの
ない姿をした都市のようなものかもしれない。ーー(解説文より)」

表象として解体された象が、都市ーー新しいものと古いものが無秩序に動き続ける街ーー
を歩く。象と像(イメージ)が重なりつつ、ガラススクリーンの表面に反射する光となっ
て明滅する。ガラスにイメージは定着しないが、それは観察者の網膜の奥で再構築される。
展示解説文の中の氏の言葉を借りれば、それは「模造される架空の風景」となって観察者
に新たな記憶を与えることだろう。氏はルネッサンス期の記憶術についても触れているが、
このインスタレーションは脳内にヴァーチャルに構築される都市「模造される架空の風景」
を眼前に再提出するかのようだ。

一方、センサーによって観察者の動きを反映するプログラムが組まれた装置は、そのブラ
ックボックス内に駆使される技術が高度であればあるほど、それが実体(オブジェクト)
にフィードバックされる時に避けられないぎこちなさを生む。しかしそこにこそ「ハイテ
クを笑いたい」と言う氏の隠された狙いがあるように思う。

その装置のプリミティブな振舞いは、我々の身体そのものを隠喩している。それは、テク
ノロジーに包囲されている現代の我々の環境と生身の体との間に生じるチグハグさに対す
る、氏一流のアイロニーのようにも思えるのだ。


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