あらゆる書物はそれぞれの世界を内包する。記述された内容が示すものは勿論、その
大きさ、厚みと重さ、紙質、装丁、題字など物理的に計量可能なものと、ときに観測
不可能なものまでを通して、その世界観が書物の外にも滲み出る。
そして内包している世界は自己完結しない。参照される言語や文化がある以上それは
前提だが、例えば他の書物がもつ世界観との出会いがあったとき、それぞれの書物の、
あるいは読み手それぞれの世界を繋ぎ、拡げたり深めたりする。
それは書物が単なる物質ではなく、意味を充填した容器であることを示す。容器の内
容物が化学反応を起こすのだ。
一方書棚はどうだろう。容器という言い方をするならより形態は近いけれど、果たし
てある世界を内包するだけの「ウツワ」足り得ているだろうか。
これは希代の編集家、松岡正剛氏の「千夜千冊」との出会いから頂いた、大きな課題
であった。千夜千冊は松岡氏が古今東西・諸学諸芸の本を巡って記し続けた前代未聞
のエッセイ/書評集である。この途方もないプロジェクトのための特別な書棚の考案
が求められていた。
まず書棚は、収められる書物にとっての舞台でなければならない。松岡氏曰く「本は
寂しがりやなので、、」ある書物には別の2冊を添えてセットで世界観を表明する。
同じ本でも組合せを変えれば意味が変わって来るからだ。故にどの本を選び棚に収め
るのか、それらの本を棚(舞台)の中でどのように置く(振付ける/演出する)のか、
さらにその棚が隣接する他の棚とどのような関係性を結ぶよう配するのか、いわゆる
選書と配架が非常に重要になる。本の組合せと同様に棚の並びかたで世界の関係性や
文脈を編集することが出来るのだ。
つまり、選んだ本と集積した棚と空間によって「ある世界」を表象しようと試みるな
ら、その実施の為には、それぞれの棚が個として独立しつつ互いに連なり組み合わさ
り、無限に自在に組み合わせられるような物理的な仕組みが必要となる。
それは無謀な挑戦のようだが、既存の書棚の概念を超えようとするためにも、あえて
棚が本という媒体に踏み込むような独自のアプローチが必要だった。
議論と試作に十数ヶ月の月日を費やして独特の構造と仕組みと意匠が定まり、松岡氏
によって「燦架」と名付けられた。
出来上がってみればシンプルな構造体である。両手で抱えられるくらいの箱状の一架。
それはあらゆる生体組織の構成要素となる細胞のように、ヒンジを兼ねた連結点によ
り自由な角度で(有機的に)隣接すべき箱と繋がることが出来る。
細胞は迎えるべき知を待つ虚空でもある。書物を蔵するための単なる箱ではなく、書
院の床の間のような一つのシアトリカルな空間として捉えたい。
例えば専用のスタンドに一架据えて書物と工芸品などを収めれば個人性の表現の場と
なり、必要な数架を組み合わせて住空間に配すれば機能的な家具となり、多くを集積
すれば曲直自在の壁や塔状を成し、空間を生み構成することさえできる。
しかし計量可能なこれらの構築物より重要なのは、その内容物の関係性がつくる不可
視の構造だ。それは単に思考の軌跡を枝状の繋がりや展開で類比/再現するというよ
り、知を抱いた棚(細胞)自身が相互に作用し得る幾重もの様相(生体組織)をつく
り出すことで環境を再構築し、そこに新たな関係性を生み、新たな思考を湧き起こす。
そんな可能性を秘めている。
千夜千冊から出発した燦架は今、システムをそのままにプレタポルテモデルとして改
編されて発展し、書物だけにとどまらず、あらゆる事物に場を提供し空間を形成しつ
つある。千鳥が淵のギャラリーで美術工芸品に、横浜のカフェで生活雑貨や企画展示
に、九州の図書館で特設コーナーになり、韓国では「サランバン(舎廊房)」の思想
と合体するなど、今後もさらなる展開が続きそうだ。
あちこちに知的な小さな世界が生まれることを想像して、愉しんでいる。